キーサン日記 -3ページ目

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自称・精神医療ライター嶋田和子よ、お前なあ・・・ホントに呆れたよ

ただいま、私の「google+」にて、美しい写真の数々を絶賛アップしております。
どうぞ、ご覧くださいませ。
https://plus.google.com/u/0/109627596197940380227/posts

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自称・精神医療ライター嶋田和子の悪辣さ・冷酷さを、実例を挙げて糾弾する(一)
を読んでみたい方は、下のリンクをクリックしてください。

どんどん読んでくださいね!!!


https://docs.google.com/document/d/1wfL9c9iksgxXrWVB6VUAPlWCbN2FGTDYS-lU-kuPZOo/pub
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自称・精神医療ライター嶋田和子よ、
これはお前へのメッセージ、いやさ、忠告である。


また、お前への批判記事「自称・精神医療ライター嶋田和子の悪辣さ、冷酷さを実例を挙げて糾弾する(二)」が削除された。
今回は、前回のような『表示できません』ではなく、完全な削除である。

嶋田和子よ、オマエなあ、今回の削除がおまえ自身によるのか、オマエの取り巻きによるのか
知ったことではないが、いずれにしても、こんなことを繰り返していると、
嶋田和子よ、オマエ自身の首を自分で絞めることになるぞ。
そんなことは解っているよな?



俺は、いままで、いろんな人間を批判してきた。
それは、あくまで言論による批判であり、どんな悪辣な医者でもマスコミでも病院でも、
このブログ上の言論による批判を封殺したことは無かった。
オマエが批判している、あの腐った内海聡ですら、そんなことはしなかった。

嶋田和子よ、オマエの批判をするようになって初めて、言論封殺に遭うことになった。
オマエはもはや、あの内海聡よりも、ずっと程度の低い最低の人間であると言わざるをえない。



しかし、嶋田和子よ。オマエやオマエの取り巻きたちが、こんなことを繰り返していると、
オマエ自身の首を自分で絞めることになるぞ。
俺は、あくまで、言論でオマエを批判してきた。
それが気に食わなければ、オマエも言論で反論すれば良い。

オマエ、一応『ライター』を自称しているんだろ???
気に食わない批判を検閲して消して、それで都合が良いと考えているのなら、
それは大間違いだ。
確かに、オマエは都合の悪い歴史を隠蔽して、改竄しようとする人間だから、
そういう発想も自然だろう。

しかし、嶋田和子よ、オマエに対する批判・抗議を言論においてできないとなれば、
どのような事態になるのか、オマエには想像できないのか??
そうだとしたら愚かなことだ。
俺たち患者会が、そのようなとき、どのような抗議活動をしてきたか、オマエ自身よく知っているはずだ。
もし、知らないのなら、仲の良い(ハズ)の笠陽一郎医師に訊いておけ!!!!!

これ以上の言論封殺をするなら、、、
なら、、、、、、、、、
自分で自分の首を絞めるのは、オロカなことだ。
オマエはもうちょっと賢明な奴だと想っていたが、違っていたようだな、、、、、



オマエ自身分かっているだろうが、一応書いておく。
オマエの本名も住所もその他のことも、こちらは知っている。
もちろん、ここで、オマエの個人情報など暴露はしない。
しかし、オマエ自身が、俺らとの関わりのなかで教えたことだからな、、、、、

いい加減に、汚い手を使わずに、
言論による批判には、言論によって反論せよ!!!!!!!!!!


(この記事が削除されないことを、嶋田和子自身のために、私は祈っている)

皿澤 剛



削除された「自称・精神医療ライター嶋田和子の悪辣さ、冷酷さを実例を挙げて糾弾する(二)」を復活しました!!!
どんどん読んでくださいね!!!!!
↓         ↓

https://docs.google.com/document/d/18LkdW8vAUP6KT7MEQRV2MzbzBMQLoEyk6E2ZUFPpBXs/pub



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えばっちの『嶋田和子』とは ナンなのだ いったいナニ者なのだ 嶋田和子の四罪 を転載します(二)

ただいま、私の「google+」にて、美しい写真の数々を絶賛アップしております。
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『嶋田和子』とは
ナンなのだ
いったいナニ者なのだ


キーサンは己が生をかけて
笠、内海、嶋田和子の四悪四罪と闘い続け
クスリゼロ社会復帰成功宣伝ハッタツ障害
当事者達と闘い続ける



「ルポ 精神医療につながれる子供たち」
「精神医療の現実 処方薬依存からの再生の物語」
を読む


セイチョウハッタツ四罪本の罪



   (承前)

アナタの頑張り次第で、こうなれるんですよ、
と、最大限、煽り立てながら
こうなれないのは、
アナタが、サボったからなんですよ、と、
侮蔑して侮辱して
煽って煽って煽り抜いて
死人を生むだろう
キーサンの生を笑い蔑すみながら、である。
だから、
われわれキーサンは、しね、と、言われて、イルのである。
成長のないお前らは、しぬしかねない、と、想いこませられるだろう
ハッタツは、働け、と、言われるのである。
我々キチガイは、ダイレクトにしね、と、言われるのである
ハッタツは、クスリを抜いて、就職就学を強制されるだろう
そして、その強制矯正労働は、我々キーサンの側にも、浸透して来るであろう
迷惑なハナシである
「クスリを抜いて労働こそが、自由への道」
と、精神科系、の綺麗な優しげなクリニックに掲げられることであろう。
「クスリを抜いて労働こそが、自由への道」
と、福祉系、の綺麗な優しげなカタカナ名前の作業所に
掲げられることであろう。
「クスリを抜いて当事者研究こそが、自由への道」
と、ベテル系、の綺麗な優しげなカタカナ名前のディケアに
掲げられることであろう。
そこで、活躍するのが「当事者スタッフ」と云う在り方なのである。
「当事者ライター」「当事者学者」
「当事者看護婦」「当事者精神医」「当事者看護士」
「当事者審議委員」「当事者検討委員」「当事者国会議員秘書」
「当事者司法官」「当事者軍人」「当事者行政官」
「当事者研究」をスル「当事者研究者」
と云う、わけなのだ

ハッタツ障害者はそういう『当事者ナントカ者』になりやすいだろう
断薬に成功したならば、資格を取って、早速に当事者看護婦になるのである
看護婦に為ったからといって、外科や内科にはいかない
当事者出身だからと、良い看護が出来るハズと言って、言われて
思い込んで、ジブンでもソウ宣伝しながら
精神科に、来るのでアル
なぜなら、健病者ダカラ
なぜなら、社会復帰的ダカラ
なぜなら、体制翼賛的ダカラ
エロウになりたいんでしょうナ
そしてそれが、精神医療を改革する、もっとも、革新的な在り方として
もてはやされていくだろう。

そこで、忘れられていくのは、
入院患者本人だったり、
精神病院の開放化だったり
四肢拘束だったり、電気ショックだったり、
看護士や医者のむき出しの暴力だったり、
30万人を超える入院患者だったり、するのだ、高齢のね

そして、キーサンの「生命の底で居直る」生きざまを
なんとか、
障害者エリートの
建病者の
ハッタツ障害者の
上昇志向と社会復帰路線とに
『すり替え』
てしまいたいと、狙いすましながら、
精神病患者会の文化を、根こそぎ、破壊するのだ




もう一つ例えてみよう
精神病患者を糖尿病患者に置き換えてみるのである
ここに糖尿病でクルシンでいる患者さんがいる
クスリを飲みながら病気と闘っている
もちろん、生活習慣の改善は、大事であろう
モチロンだ
体重を減らし、甘いものを控え、適度な運動をしなければ
と云うわけだ
しかし、なかなか、そううまく、生活習慣を変えられない
そして、糖尿病の重さや原因にもよるだろうが、
いきおい、クスリを飲むことに為る
モチロン糖尿病のクスリにも副作用があり、身体には良くないだろう
そこで、オマエのようなライターの登場だ
糖尿病治療を五年間取材してきましたからと
やおら、その糖尿病で苦しんでいる患者さんに
適度な運動もせず、減量も出来ないで、悩んでいる患者さんに向かって
糖尿病のクスリに依存しているからソウナルのだ
減量の努力が足りないからだと、やり始め
それどころか、ナント、患者本人のニンゲン的成長といった
事まで、持ち出してきて、
減量努力の無い糖尿病患者に
人間的成長も無い
とまで、やりだしたのである。

ソリャア、人生、イロイロたいへんなことが、いっぱい有るんだよ
ナカナカ体重減らせないよ
ソンナことも分からずに
この著者は
そうやって、本を二冊書いて、糖尿病医療のモンダイ性や
その社会的背景よりも
患者本人の減量努力の足りなさの方を
ヨリ派手に追及しだしたのである
ライターも医者も看護婦も、である
糖尿病治療のセカンド診断、として、
患者本人の減量努力と体重と人間的成長とを
重ね合わせて語り始め
従来の糖尿病医療を根本的に破壊する
と言い出したのである
糖尿病などというものは無い
アルのは、減量努力の足りない
食欲の抑えられない糖分摂取過剰依存症にシカ過ぎないのだ
と言い出したのである
もしくは、糖尿病治療薬依存症のママ
減量努力の無い患者は、人生を振り返ることも出来ぬ
と言いだしたのである

例えばのハナシである
コレは許されるようなコトだろうか
内科では、許されないだろう
もっと、深長に慎重に丁寧に、やっていくだろう
でも、精神科領域では、コウヤッテ、ヤッテしまえるのである
チガイはナニか
糖尿病と精神病との疾病のチガイなのか
おそらく、ソウではない
そう、おそらく、ソレは
糖尿病患者と精神病患者という
患者のチガイなのだ

「罪を憎んでヒトを憎まず」
ナノデは無い
「罪を憎まずヒトを憎む」
にチカイのである
「病気を憎んで患者は憎まず」
ナノデは無い
「病気を憎まず患者を憎む」
ナノデある
ああ、もちろん、モチロン
「病気も憎んで患者も憎む」
が、より、チカイであろうが
この著者が、ドコに立っているかは、明明白白だと、想う
内科と精神科の患者に対する、この冷酷なまでのチガイは
何処からくるのか

それは、医療全体が、社会全体が、
この著者嶋田和子が

精神病患者を、下に見ているからなのである
冷酷なまでに、冷徹に、下に見ているからなのである

では何故、ココにココまで、こだわるのか
この程度の見識で
たかだか、五年で
二冊も本を出版できてしまう、
ココに、三流のライターが、
美味い汁を見つけた
と云う
ことなのである
しかも、ネタは、向こうの方からデーターとともに来るのである
たいした取材もせずに、書けてしまうのである


最初っから精神科のクスリを飲んでるヤツはいない。
嶋田和子よ、オマエが、処方薬依存だと斬って捨てるのなら、
その、依存症にしたものはなんだったんだ。

オマエの書いてることは、
笠やオマエや内海が言うトコロの依存症なるものに
させた、させてシマッタ
社会的背景を徹底的に免責し
依存症になったと、オマエが、揶揄する患者の努力の足りなさを
責めるものになっている。
ちがうか。
しかも、その社会的背景を、精神科医か精神病院という医療に限定している
いや、それよりも、もっと限定している、クスリに、限定している。
ここまでくると、モハヤ、社会的背景を免責していると、言って
世間様におもねっていると、言って
過言ではない

えばっちも、製薬会社も含め、精神科医には、精神病院には
クスリにも、注射にも、恨み骨髄である。
徹底的に、ヤッタラいい
でも、そこだけに社会的背景を限定するオマエの書き方には、
いやらしさを感じる。
オマエ、ライターとはソンダケのもんなんか
オマエ、ライターを名乗ってるんなら、
もう少し深い社会的背景をちゃんと見ろ
もう少し、患者により添え
オマエの文章からは、嫌らしさと、
患者に対する冷たさ
特にクスリを飲んでいる患者への冷酷さしか感じないぞ、
ナニ書いてても

オマエ、それ、分かってナイヤロ


オマエの腐った三段跳びとはこのこった
社会的背景は無視と免責でホップ
精神医と精神病院の罪をソレナリに言い立ててステップ
最後は
患者本人の努力の足りなさと
患者本人のがんばりの足りなさ
結果として患者本人の成長の無さ
にすべての罪をおっかぶせて、ジャンプ

これぞオマエの作った三段跳びだよ。
一作目と二作目の違いは
ステップのところを批判をかわす為としか、想えんが、
少し多めに書いたということだろう。
注と外国文献を散りばめたということだろう
美辞麗句で飾り立て、ながら、な

それがオマエのライターとしての見識か、
オマエの問題意識のありどころというか、無さどころというか、
病者患者に対する冷たさが分かってしまうもんで
だっから、オマエの本読むと
大概の病者はナンダカ気分が悪くナルと、感じてシマウんだよ


そして、本当に極悪非道なことをヤッテしまった
嶋田和子、オマエ、
とんでもないことをヤッチマッタんだぞ
ワカッテイルのか、このタワケ者
笠リロンの適合具合に
ハッタツ断薬療法と
セカンド減薬療法に
その成功度合いに
その失敗度合いに
社会復帰上昇角度に
患者の人間性を
患者本人の人間性を
絡めこんでシマッタ
絡めてシマッタ
影絵芝居に仕立ててシマッタ
これは、患者内に
減薬の成功度
断薬の成功度
社会復帰の成功度
上昇志向の性向度
患者の側の笠リロンへの適合度
に応じた
差別とヒエラルキー
を生むだろう


(・・・・・・)

どんな美辞麗句を語ろうと
この本の著者嶋田和子はモハヤ
『人間的成長』
『人間性』
『人格』
をとうして、
キーサンとハッタツ断薬成功者
との全面対決を
煽っている
お前自身があまりに浅い
ナンニもわかっちゃいない
五年ほど精神医療にかかわったので
こうまで、書ける
と思ったのだな

酷いモンダ
クスリも飲まず、精神病院にも入ったことのない
五年ほど精神医利用に精神医療に関わりましたと
そう言うライターなる者が
患者本人の人間性と
ハッタツ断薬療法の成功とを
あまりに安易に重ね合わせてしまった
影絵芝居のように、見せてシマッタ

この意味を、おそらく、嶋田和子は、
浅すぎて
浅薄すぎて
分かりもしないだろう
オマエの言っていることは、書いていることは、
最終的には
我々キーサンの生きる道は
クスリゼロを目指し
そして、そうなったことを
宣伝して回っている
ハッタツ障害者と闘わねば、為らないのだ、な、
と覚悟を迫ってきている

ハッタツ障害概念と闘うのではモハヤない
或いは、腐ったライターや
腐りきったフリー精神医為る者達と
闘いながら、
クスリゼロになり、こうすれば、ワタシのようになれるんですよ、
と、宣伝の御先棒を担っている
ハッタツ障害者と
闘わね

為らないのだ


そう、この本の九人の
ハッタツ障害者断薬成功社会復帰バンザイ者達
との対決である。

もちろん、このなかの一人はチガウかもしれない。
そう、この人は、こんな風にこの本で取り上げられて、
不本意かもしれない、だって、本人の了解決断の下にやると、
結局クスリはゼロになりませんよと、
本人の意向の尊重はワルいコトだと云う、例として、
取り上げられているからである。酷いハナシだ。

退薬症状なのか、クスリの副作用なのかと云う、
本人に向けて医療論争シカケル前に、医者同志で医療論争ヤル前に
本人が、コウコウコウで、クルシイと、言っていることに、
寄り添ってミタラどうなのか、と、想う。
本人がこうまでクルシイと言っているにも拘わらず
笠も自称ライターのオマエも、それは、クスリの副作用ですと、
言いつのって本人をクルシメている。
タマラない。
しかも、本人の意向に沿うと、コンナもんですよ、と、
本人が、言う事を、信用しないヨウにシヨウと云う、態度を取っている
そして、ソレを、良いように、言っている

医療的に、退薬症状なのか副作用なのか
どちらが、真ナノカ、精神科診断的には論争は、アルだろう、
しかし、その前に、本人のクルシイと云う声に、
寄り添ってミタラどうなのか、と、想う
ちなみに、どちらかは、ワカラナイと云う、コトだってアルのでは、と想う

今、ココの厳然たるシンジツは患者本人がクルシイと、
叫んで訴えていることなのである
ソコに寄り添わず、笠も嶋田もソレは、副作用ダ、と言って
本人を責めるのである

オマイ等オカシイやろ、医療としても、崩壊してる
何と為れば、本人が、笠と嶋田を、信頼シテいないからである
患者が、精神医を信頼していないのなら、
ソレは、従前の精神科医療の構造、そのマンマではないのか

そして、どういうわけか、この本に看護婦は三人も登場する
看護婦として社会復帰して精神科でシゴトするのなら、
遠慮なく言わせてもらおう
このなかの一人の看護婦は
ソウゾウを絶する
とんでもない障害者エリート風を吹かす
当事者出身の腐りきった看護婦になるカモシレナイ
クスリゼロ者として国家刺客取得者として
半端者センセイ五職社会復帰成功者の典型例となり
そのことを得々と、語っている
実に成功者の差別的態度そのものなのである。

なんでこんなに看護婦が多いのか、全部で三人である
そのうちのもう一人は看護婦の職場で発病したようである
確かにクスリも酷い
しかし、やはり、クスリゼロにして、
看護婦として再度働きはじめ母親としても立派だという、
そういう物語になるのであるが、
しかも、この看護婦の母親との母娘密着を
心理的に妙に強く問題視しているのであるが、
ここでちょっと待てとえばっちは想うのである
そもそもの大問題は職場にあったのではないか
職場での看護婦としての働かさせられように最大のモンダイがアルので、
あって、そこをまったく無視免責して
セカンド成功の
クスリゼロ者の社会復帰美談になってユクのである
職場環境と家庭環境に原因がありながら
クスリゼロに苦労の末に為ったとして、同じトコへ職場復帰家庭復帰したなら
再発は、しないのか
最後にでてくるもう一人の看護婦は、
なんだか、我々キーサンとは全く、無縁のように感じられるのだが、
ツマリ、精神病でもハッタツ障害でも、ナンデも無い健常者が
全く無用のクスリを飲まされてしまい、苦労の末、クスリゼロになって
社会復帰できました、と云う物語だが、
ソモソモ健常者ダロウ、
なので、あって
この物語を、精神病患者に言われても、
ナンノコトカシランに為ってしまうのだが

それでも、なんというか、
最初の方にでてきた看護婦とともに

この本の最終結論
ツマリはクスリゼロ者の国家資格取得成功者の
半端者センセイ五職のうち
医療食福祉食を選んだという
だもんで、とくに、世間様に役立つ
人間的成長溢れる人格者ということになるのである

われわれキーサンとはなんたるチガイか
それは、チガッテ当たり前とも、言えるのだが
それにしても、コレは
恐ろしいことナノである
闘うしかない、と、そう想うのである
この本の存在は、えばっちに、その覚悟を迫っている
当事者出身の看護婦こそ
我々をコロス側に為るのである
しかも、努力と勤勉によって、ついにクスリゼロを成し遂げた
人間的成長溢れる人格者ナノダから

そう、歴史を見てみよ
差別され虐待されてきた側が
努力と勤勉の挙句に
成功者になった場合に
差別虐待する側に、ドレダケ都合のよい
奉仕者として働くことに為ってきたのか
為るコトに為ってシマウのか
だからこそ
ソウは、為らなかった者たちに
残されている道は、闘うしかないことを、
この本の存在は、決断を迫っている

さもないと、殺されてしまうから、
絶望を、今以上の絶望をまき散らされて
更なる絶望の淵に追い込まれて
殺されてしまうからである
分からなかった、とは言わせない
この本は
その激突を煽っている、のだから
その絶望を煽っている、のだから
この著者は
その激突を煽っている、のだから
アコギなハナシである


ハッタツ障害概念を根底的に否定し
クスリゼロ社会復帰成功ハッタツ障害者と
クスリゼロ社会復帰成功ハッタツ障害モノと
全面的に対決する
その
覚悟を
この本は迫っている


しかしながら、ソレは、コレまで、キーサン患者会が
やり続けてきたこと、と、同じことだ、とも言えると、想う
全くオンナジだ
なぜなら、これまでも、
社会復帰美談を言いたてる
見えにくいアクジに加担し続けてきた
お利口さん健病者とは、徹底的に闘ってきたのだから
だから、キーサンは、まったく、かわらなかった
と云う
わけなのである
あいも、かわらずに、同じことを
叫び続けているだけ、なのである


ダカラ、この際、
嶋田和子よ、きさまに、言っておいてやろう
お前の言う成長なんぞは
したくもない
それが、キーサンの生きる道である
お前の言う
人生の振り返りなんぞ
したくもない
アホらしい


我々は、我々独自で
生き方を模索し、人生を生き抜いてきた
三度の飯を喰い、大便をし、ニクマン地獄の中で
精神病院の五点張りと
看護士と精神医の殴り地獄から、生還してきた
なかまを観察法から救い出しもしてきた
オマエなんぞが、クスリのことを言いだす遥か以前から
精神病院の
電パチ
電気ショック漬け
クスリ漬け
ベットへの縛り付け
保護室漬け
看護士の暴力支配と
闘い抜いてきたのだ
今もしビアーに闘い抜いている
しかも、笠、オマエ、内海というすり替えアクジのヤツラと
新たに、闘うハメにも、陥っている
オマエタチがいかに絶望のタネをばら撒こうと
この地で、しぶとく、オレたちは、生き抜くであろう
なかまたちと共にである
それが、キーサンの人生を生き抜く
「生命の底で居直る」
と云うことなのである
我々はもうすぐ四十周年を迎える
いや、友の会としての前史もあるので、
実質的には四十年をこえているだろう


オマエのような糞戯けに、
精神病患者の
人生を
語ってはもらいたくは、なかった



我々キーサンは
徹底的に精神医と精神病院に
バカにされ殺され続けてきた
今度は、コンな腐ったライターと称する者にまで
バカにされ絶望に追い込まれなければならないのだろうか
もはや
モハヤ、コレは
すり替えアクジのハンニン達による
社会復帰圧力や断薬減薬圧力ナンテものではない
まさしくコレは
すり替えアクジのハンニン達による
意識的な
自殺圧力である
絶望圧力である



2014/11/17 起稿  前進友の会
えばっちより
この文章の後半部分は
『生命の底で居直る』とはドウ言う事だ
という別題の文章として
のちほど、公表されるものである


(以下、付記
嶋田和子批判の要諦
嶋田和子の四悪
、が、つづく)


えばっちの『嶋田和子』とは ナンなのだ いったいナニ者なのだ 嶋田和子の四罪 を転載します(一)

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『嶋田和子』とは
ナンなのだ
いったいナニ者なのだ


キーサンは己が生をかけて
笠、内海、嶋田和子の四悪四罪と闘い続け
クスリゼロ社会復帰成功宣伝ハッタツ障害
当事者達と闘い続ける



「ルポ 精神医療につながれる子供たち」
「精神医療の現実 処方薬依存からの再生の物語」
を読む


セイチョウハッタツ四罪本の罪

嶋田和子の四罪

壱之罪

大勢の、たくさんの、患者を、ソレは、処方薬依存デショと、斬って捨てた。凄いものである。惨い仕打ちである。
入院している三十万人以上の病者を含め、大多数のクスリを飲むしかなかった、飲むより仕様がなかった、飲まざるを得なかった、そういう精神病者患者、を、ソレは処方薬依存にスギナイノダと、斬って捨てたのである。ご丁寧にも、特にベンゾ系を飲んでいる患者は、特に依存症患者だ、と特筆して、この手のクスリを飲み続けている患者は、常時、酒を飲んでいるようなものだ、と、斬って捨ててシマッタ。たくさんの、病者が、現に飲んでいるし、飲まざるを得ないクスリである。しかも、断薬が、もっとも、ツライとも、言っている、なら、減薬も断薬も出来ない患者も出てくるだろうが、モチロン、ソレは当然ながら処方薬依存だからだ、と、斬って捨ててシマッタたのである。なら、たとえば、多くのベンゾ系を飲んで生活している患者は、常時酒を飲みながら、作業所に通い、デェイケアに参加し、ミシンや、電動のこや、車の運転や、包丁を使って料理をしていることになるのだが、、、、欠格条項を増やしたいのか、この著者は、、、、トスラ想うのである。
たかが、一行二行の書きぶりをあげつらっているわけではない。この考え方が、冷酷なまでのこの考えが、一冊目を含め、この著者の底流に流れ続けているから、モンダイにしているのである。そして、この底流に流れるものは、まさしく、内海の直系の弟子を意味しているのである。
しかも、依存症だと言いながら、この著者の依存症への眼差しは、余りに差別的侮蔑的であって、しかも、従来の、本当に酷い浅薄極まりのない、『依存症理解』の典型なのである。『依存症』をよく、分かっていないのであろう。分かってもイナい事を得々と、書いてシマッテいる。
精神病患者と言われ、精神病質者と、サイコパスと蔑まれ、処遇困難者だと閉じ込められ、ハツタツ障害だ、と、勝手に病名変更され、ついには、処方薬依存患者と、罵しり始めたのである。ノンラベルどころではない、我々を蔑み絶望の淵に追いやるために貼られるラベルが、また一つ、増えたのである。大きな罪である。



弐之罪

再生の物語という美辞麗句を連ねて、社会復帰路線を徹底的に美化推進している。
再生の物語と称して、社会復帰を、社会適応を、就職を就学を、復職を復学を、ひたすら健常者社会に適応することを、障害者エリート路線を、健病者路線を、再生の物語として、押し付けてくる。コレでは、マチガイなく、死人が、出るだろう。
ごかいの「よもだに生きる」の対極の姿である。
前進友の会の「働かない権利」の対極の姿である。

営々と積み上げてきたキーサン患者会文化の根幹の一つ「反社会復帰」を、「再生の物語」と云う美辞麗句で、叩き潰そうとしている。ソウはなれなかった者に、再生の物語と言いつのるのなら、その『再生』にシクジッテしまった、社会復帰を果たせなかった多くの病者に、更なる追い打ちとしての絶望をもたらすであろう。優しげな美辞麗句に隠された冷酷なまでの、エリート健病者路線を見よ。嶋田和子のさらに大きな罪である。笠は、何時から社会復帰推進者にナッタのか。選挙中のイマの政権や、世の中に、コレほどまでにも、迎合しなければならないのだろうか。



参之罪

以上の二つの罪をすべて、患者本人の頑張りに尽きると、
努力に尽きると、斬って捨てている。

一冊目二冊目を通して、通奏低音のように、響かせ続けている、この冷酷さは、特筆すべきものである。笠のように内海のように、言いきってシマッテいると、いって過言ではない。いや、余計に悪辣に、煽っている。それは、逆に言えば、患者本人のだらけかたに、患者本人の努力の足りなさに、患者本人の怠け癖に、患者本人のクルシサの原因として、ゲンヤクに取り組まないのはアンタの努力不足、デアルと、全てを、患者本人の頑張りと云うか、努力の足りなさ具合に、押し付けてしまった。モハヤ、減薬に取り組まない患者は、怠けものだからだ、と、言っているに等しい。
だから、イマこのようになってイルのも、自分自身のせいだ、と、徹底的に、本人の努力の無さに、押し付けてシマッテいる。これでは、大多数の精神病者達はタマラない。少数のエリート病者バンザイ路線である。冷酷なものである。益々、患者はやりきれない。精神医と精神病院にイビラレ続けた挙句、このようにして、ココでもまた、イビラレるのである。死者が出るであろう。コレはもはや、殺人である。嶋田和子の殺人的罪である。



肆之罪

それだけでは足りずに、
それだけでは飽き足りなかったから、なのか、
ハッタツ断薬療法の達成尺度と
セカンド減薬療法の成功度合いや
社会復帰の進捗度合いと
著者の言うトコロの
患者本人の人格とを
患者本人の品性とを
患者本人の人間としての成長とを
かさね絵として、影絵芝居として見せてしまう
と云うことを
ヤッテシマッタのである。
このことがナニを意味するのかおそらくは、
この著者嶋田和子は分かってはイナいのではないか想う。

とうとう、患者本人の人間的成長だの人格の完成だの、人間性だの、品性だの、人生の振り返りだの、とを、ハッタツ断薬療法の達成尺度やセカンド減薬療法の成功度合や、社会復帰の進捗度合や、社会復帰右肩上昇角度とを、影絵芝居のように、重ね合わせてしまった。ヤッテはならない事をやってしまった。笠の責任も、大きい。
これだと、クスリも抜けず、社会復帰も出来なかった、多くの多くの、病者が、人間的成長のないヤツラだと、いうことになってしまう。
死んでいった患者たちを棺から引きずり出して、鞭を打っていると、言って過言ではない。彼らは、彼女たちは、人間的成長も無く、死んでいった、とでも、言うのか。答えてミロ。嶋田和子よ。著者は、このコトの持つ意味を十分に理解して、書いたのだろうか。
どちらにせよ、この著者は、この重ね絵を、全てのハッタツ断薬療法セカンド減薬療法に、影絵として落とし込んでシマッテいるので、少しでも、この療法に取り組もうとする、患者たちに、却って、真において、更なる、累々たる屍を生み出すだろう。嶋田和子の罪は、極大に達している。しかも、己の罪に、マッタクの無自覚さをさらけ出している。ソウゾウを絶する極悪非道、狡猾極まりのない、最低のやり口である。
精神病者にどれほどの苦痛と絶望をまき散らせば、気が済むのであろうか。
精神病者患者に、どれほど絶望の淵に追い立てれば、気が済む、
と云う、のであろうか。
処方薬依存症からの再生の物語と云う美辞麗句を使いながら、
鞭を振るって、多くの患者を死の淵に、追い立てていくであろう。
絶望に追い立てるその鞭を、愛の鞭、だとでも、言う、のであろう、か。
嶋田和子の罪は、はかり知れない域に到達している。
そして、その愛の鞭を、受けたが故に、成長できました、と云う、当事者が
笠と、嶋田和子と、内海の、ファンクラブに、なるのである。

そのファンクラブの会報にしか過ぎない、そういう、シロモノなのである。
これは、ライターなる者が、書いたものとしては、あまりに、無様である。


これが、嶋田和子の四罪である。
今や、笠、嶋田、内海の三人は、精神病患者の死を、
精神病患者会の絶滅を望んでいる極悪非道の三罪人と、
言える、と、想う。
特に自分たちに逆らう患者の死を望んでいると、
しかも、強く、死を望んでいると、そう想う。
自殺させたいのか、と、そう想う。
この点では、従来の
見えやすいアクジのハンニンどもにも
見えにくいアクジのハンニンどもにも
匹敵する
極悪非道の精神病患者の生き血を啜る者達である
と言って、過言ではない。
これは、
減薬圧力でも、
断薬圧力でも、
社会復帰圧力でも、
モハヤない、
これは、もはや、
自殺圧力である。

患者を、自殺に追い込むために、やっているのである。
とうとう、ココマで、来て、シマッタ
そう、それでも、オレは、功罪の巧もアッタのだ、と、言おう
確かに、
誤診や誤処方と、闘っていたのダカラ、最初の四、五年は。
でも、ソレが、コウマデに、羽化してシマッタ
何故だか、分かるか、笠陽一郎よ。
この嶋田和子の羽化の責任を、取るべきだ。


見えやすいアクジのハンニンどもに
オレたちは、毒グスリと電気パチで殺されてきた
見えにくいアクジのハンニンどもに
オレたちは、社会復帰圧力で殺されてきた
こんどは、こんなクソたわけた嶋田和子をはじめとする
すり替えアクジのハンニンどもに
オレたちは、人間的成長もないグズどもだ、と、罵しられて
処方薬依存からの再生の物語ナンゾと云う美辞の下
精神医療を根底的に破壊すると云う麗句の下
精神医療改革運動のためにならないと云う美辞の下
せっかくやりはじめた患者さん達をブレさせると云う麗句の下
クスリを飲まざるを得ない患者たちは
更なる絶望圧力と自殺圧力で、殺されることに為る、のである


嶋田和子、オマエ、
とんでもないことをヤッちマッタんだぞ
ワカッテイルのか、このダワ坊が
ハッタツ断薬療法と
笠リロンに
セカンド減薬療法に
その成功度合いに
その失敗度合いに
患者の人間性を
患者本人の人間性を
絡めこんでシマッタ
絡めてシマッタ
これは、患者内に
減薬の成功度
断薬の成功度
に応じた
差別とヒエラルキー
を生むだろう
自殺に追い込まれる患者が出てくるだろう
それは、ヤッチャいけないことだったんだよ

ナンニもわかっちゃいないヤツが
良いように言いながら
ヤッチャいけないことを
ヤッてシマッタ
ソレはヤッチャいけなかったんだよ
ソレダケは、、、
オマエには分からないのだろう


有り体に言って一冊目はアホすぎるで、済んだ、
実は、スマされはしないのだが
それでも、
アホ差加減が、まさっていたと言うべきか
だが、この二冊目は、アホだナァーでは、モハヤ、済まない
つまり、より悪辣さを
より、悪度さを増している
としか言えないモノがある

内海聡を匿名批判しながら
内実は、心根は、
まったく、内海と、一緒ナノである

精神病ナンゾは無いのだ
アルのは、ただただ、依存症患者だ
処方薬の依存症患者だけなのだ
しかも、そうなったのは、本人のセキニンだ
本人が為ったノダ
だから、依存症の治療を受けろ
と云う
わけなのである
これは、本当に
悪辣きわまりのない、すり替えである
アルのは本当に処方薬依存症の患者ダケなのか
常用量依存の患者ダケなのか
オマエなにを言いさらすのや


昨年、友の会は、老齢のクスリを飲むしかなかったなかまの、
死を、二人もむかえた。
もう一人は、まだ若くして、癌で死んでいった
カンジャ会ナカマの古い古いナカマが二人も
自ら死んでいった。
みんな、クスリを飲むしか、なかったんだよ
それでも、
精神病なんてモノは無い
躁鬱病なんてモノは無い
だらけきった精神病患者達は、だらけきっているが故の
依存症患者だと
言い切り
アルのは
処方薬依存の患者ダケなのだ
と云う
再生の物語を語れないのは
本人がだらけきっているからだ
と云う
この腐った著者のこの言いぶりは
ジブンだけは、上に立って
患者を見下ろしながら、
病者を勝ち組負け組とに決定的に分別しつつ
キチガイを
精神病者を
精神病患者を
死んでいったナカマたちを
これでもかこれでもか、と
鞭を打ちながら、
愚弄している
そう我々の生そのものを愚弄している
モハヤ、度を超している
ここまでくると、もはや、笠を越えているカモシレナイ

いや、笠批判が余りに激しいので
笠を使い回し使いツブシといて
もっと世間受けしそうな神田橋とか
云うヨウな、精神医に、も、乗っかろうとしているのか
でも、結局は笠リロンの宣伝なのではあるが

それにしても、
やけに、悪辣さを増している
というか、
そう、狡猾な、イヤに狡猾な本に仕上がっている
だから、電気ショックのことまで取り上げてはいるが、
友の会編のあの本のことまで出ているが
電気ショックを受けさせられた患者のことではなく
笠と黒川さんと云う
医者の原稿を紹介するのである
しかも、その狡猾さは、『批判逃れ』、トシカ言いようのない
箇所が散りばめられているコトである

批判逃れとしか想えないのは、
底流に流れるものが、クスリを飲む患者を
バカにし続けてイルから、である。
あまりに冷たいとしか、言いようがない、箇所が多い
あまりに、差別的であるとしか、言いようのない、箇所が多い
それを、しかも、患者さん九人に語らせ、
ジブンは頬かむりをシテイルのである
実に悪辣非道、極悪非道のやり口である
一冊目に対する批判から、学んだと云うことか。
しかし、それは、かえってオマエのライターとしての
浅はかさを赤裸々にしている。


底まで狡猾でありながら
この著者嶋田和子は、
この本で、ナニをヤッチマッタカ
分かっていないようである。
このクソタワケなライターが
処方薬依存からの再生の物語として
ヤッテはならないことを
ヤッテしまっている
そして、それは、えばっちに
もはや、ハッタツ障害概念ではなく
ハッタツ障害者との対決を
決断させてシマッたのだ。

嶋田和子自身はおそらく、おのれが、ヤッチまったことを
自覚はしていないであろう。
もし、自覚していて、ヤッちまったのなら、
なら、、、、、
なら、、、
なら、


ハッタツ断薬療法と
セカンド減薬療法の
社会復帰の
成功度合いと
著者の言うトコロの
患者本人の人格とを
患者本人の人格の成長とを
かさね絵として、見せてしまう
と云う
ことを
ヤッテシマッタのである。


ハッタツ断薬療法とセカンド減薬療法のうまくいきグアイと
患者本人のガンバリに尽きると
ということだけでは
飽き足りずに
そこで止めておくことが、出来なかった
だから
著者の言う
患者自身の人格、人生の成長
と云う
コトとを
重ねた影絵芝居にして
見せつけてシマッタのである。


減薬と断薬のうまくいきグアイと
社会復帰のうまくいきグアイと
そもそも、が、二重に逆転屈折している考え方なのだが
笠リロンとの適合度を
患者自身の人格成長角度とを
重ね絵にして、まるで陳腐な決まりの社会復帰美談の
影絵芝居に仕手見せてシマッタ

減薬や断薬や社会復帰のうまくいきグアイを
就職復職右肩上がり上昇角度とを
患者自身の人生の成長の
影絵芝居として
見せツケテシマッタのである
これでは、苦しみ抜いた精神病患者を
更に絶望の淵に追い込んで
自殺させることになるだろう


ある特殊な過激ともいえる治療法に
患者側が適合するか否かが
患者の人間成長力と
イコールでアルと
ヤッテしまったのである
二重に屈折したこの影絵芝居は
とてつもなく、精神病患者を
拷問し続けるだろう

これでは、キーサンは
精神病患者は
黙ってはおれない

心のソコカラの怒りを憶える


嶋田和子よ
おのれは
ナニをヤッテしまったのか
本当にワカッテイルノカ

これが、ナニをもたらすか、
このクソタワケた著者嶋田和子は
わかっては、いないだろう、おそらくは、、、
もし、もし、
ワカッテイテ、ヤッタのなら、なら、のなら、、、
この程度のライターがヤリソウナことではある
のだが、、、、
だが、少なくとも
そう
少なくとも、モハヤ
この影絵芝居の役者達九人と
えばっちと云うキーサン病者は
おのが人生を掛けて
おのが生存を掛けて
対決することになるのである

しかし、コトは、ソレだけでは、済むまい
おそろしいことになった

オレは、虞を感じている


ああ、もちろん、この著者嶋田和子と
内海と笠
と云う
クソたわけたモノ達
この影絵芝居の脚本家演出家達と
えばっちと云うキーサン病者は
おのが人生を掛けて
対決することになるのである
アタリマエだ
嶋田和子と内海聡は
ここまで、の、羽化を、シテシマッタ
笠よ
笠よ
笠陽一郎よ
こういう腐りきった
差別者
虐待者
を産んでしまったのは
オマエなんだぞ、ワカッテイルノカ
羽化させキッテシマッタな


(・・・・・・)

再生の物語、それは、ヨカッタ
クスリゼロの物語、それは、ヨカッタ
誤診誤処方からの再生の物語、それは、ヨカッタ
処方薬依存からの再生の物語、それは、ヨカッタ
それは、ヨカッタ、ですね、と云う、ダケのことなのだ

だが
モハヤ、それではすまぬ
しかし、もはや、それは、ヨカッタですね、では、
すまなくなってきたのである。
断薬が、人を成長させるノダ
断薬こそが、精神医療の被害から立ち直り
自己を見直し、人生を振り返り、
人間を成長させることが出来るのノダ
と云う
この本の主張には、怒りを、感じざるを得ない
だったら、クスリを飲み続けるしかなかったし、
クスリを飲み続けることを選ばざるを得ない
そんな、キチガイに
精神病患者に
病者に
この著者は
想像を絶するほどの冷酷さを持って
クスリゼロ圧力
社会復帰圧力

絶望と共に、更なる屍を積み上げながら、押し付けてくる
ドンナ美辞麗句を散りばめようと
クスリを飲んでいる患者には、人間としての成長ナんゾ
あり得ないと
匕首を突きつけてくるのである

これは、差別どころではない
これは、差別を超えた、我々キーサンへの
精神病患者への悪辣極まりない、攻撃である。
自殺圧力、
と云う、
絶望圧力、
と云う、
おそるべき虐待行動なのである

ソレが精神医療の真実とは、恐れ入りました
本当に恐れ入った


(・・・・・・)

このライターは、ルポルタージュの、もしくは、
ドキュメンタリーのライターとは、
もはや言えない

ブログと云う網を張っておいて、
自ら、データーを持って
著者のブログに来る患者さん達を
拾い集め
自分に都合のいい、患者だけを
都合のいいように、紹介している。
もしくは、笠のセカンドに来る相談の親や患者さんを笠から紹介してもらって
そこからも、自分の都合のいい親と患者を
拾い集めるわけである

笠からの紹介で
自分のブログに紹介し
さらにまた本にも紹介という
又又紹介というわけである
これが、取材というのなら、
笠と嶋田のセカンド良いコトダケヤラセのリサイクルと言っても
過言ではない
こんなのが、ライターと言えるのか
こんなのは、
自分の信念に従って、自分の良心に従って、
取材して、足でかせいで、ルポを書いていくという、
のとは、チガウ

そういうライターではないことを、
この2作目は、
はしなくも、赤裸々にしてしまった。
ライターとして、情けない限りである
しかも、
どんな中身でもいいので、自分が有名になり、
そして、ライターとして成功し、
批判をかわすことが出来れば、どんなことでも書くという、
どんなことでもコラムとして追記しておく、注として、散りばめておく、
外国語文献も、盛り込んでおこう
というような、手合いなのである。
狡猾スギル。物書きとしては最低である。

オレたちの批判に、あるいは、笠批判に、ナントカ対応したくて、
仕様がなかったのか
このライターは、自分のライターとしての誇りを持っていない、
と言わざるを得ない。
ナサケナい2作目である。


繰り返し繰り返し、何度でも、
言うのだが、
最大のモンダイは
この手の再生の物語に、
なかなか、なれなかった
毀れ落ちてしまった
漏れ落ちてしまった
我々キチガイの、大多数なのである。
この再生の物語に、
落ちこぼれた
精神病者たちは
精神障害者達は
どう、生きていくのか、ということなのである。
再生の物語に落ちこぼれる人間は、
いる
だろう、
チガウか
必ず、いるのだ、
ちがうか、チガウのか
そのういうニンゲンでしかないニンゲンたちに向かって
きさま、嶋田和子、おのれは、
オマエは、
人間的成長なんぞは無い
人生を振り返ることも出来ぬ
と、斬って捨てやがった

そうは、なりたかったが、余りに苦しくて、そうはなれなかった
そうなりたかったが、
そうなるための条件も
経済的余裕も、家族も、生活環境も、
イロンな状況も恵まれなかった
そういう、圧倒的に、数も多いであろう、
そして、クルシミも、深いであろう
クスリを飲むしかナカッタ
クスリを飲まざるを得なかった
クスリが抜けなかった
そういう精神病患者を
そういうキチガイの生ソノモノを
この本は、優しいコトバをちりばめながら
落ちこぼれた、キチガイを
最大限、罵倒し、蔑すんで、せせら笑っている
人間的に成長できないヤツラだと、せせら笑って
絶望に、追い込もうとしている


(つづく)

嶋田和子よ、貴様『処方薬依存』とは、何様のつもりだ???

ただいま、私の「google+」にて、美しい写真の数々を絶賛アップしております。
どうぞ、ご覧くださいませ。
https://plus.google.com/u/0/109627596197940380227/posts

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腐った精神医療ライターの
嶋田和子よ、貴様、何様のつもりだ?!


今度出した貴様の近刊の表紙に、あろうことか、『処方薬依存』とデカデカと書かれているそうじゃないか。

貴様、自分の出版した本の表紙に平気でそんな言葉を書けると言うことは、自分では全く気づいていないかもしれんが、貴様の精神病者に対する悲惨な見方・蔑視観が、図らずも露骨に出てしまったということだな。

向精神薬を呑んで、毎日、一日一日を苦しい想いをしながら、地道に自分の人生を生きている患者、自分の病状と向き合いながら、一日一日をなんとか生活している病者大衆の人生を、
そして、貴様の言う減薬・断薬がうまくできなかった100万人以上の患者大衆の人生の現実を
あろうことか『処方薬依存』という言葉で切り捨てるんだな???



これじゃ、あの内海聡と本質はなんにも変わらない。



お前のブログで紹介している減薬・断薬が概ね成功している「当事者」は、オレらから言わせれば単なるニセ病者で、最初からクスリなんか呑まなくても良かった連中やし、そういう人たちを精神医療の被害に遭わせないようにするのが、「精神科早期介入を考える会」の趣旨だったはずだ。その運動の賛同人にオレもなっているし、会が機能していれば、非常に意義のある運動になっていたはずだとオレは今でも想っている。しかし、その会を最初に呼びかけた笠陽一郎医師は、なんの相談もなく呼びかけ人から消えている。貴様(嶋田和子)はこの会の副代表だったはずだよな??この間の経緯を、少なくともオレら賛同人に説明する責任が貴様にはあると想うが、それすらも無視するのか??



それはそうと、オレが言いたいのは、たとえ、この人たちが本当はニセ病者だったとしても、患者ではあったということだ。そして、その人達一人一人固有の人生の苦しみがあったハズだ。貴様のブログでは、いや、今度出た貴様の本のなかでも(たとえ貴様にとって都合の良いケースであったとしても)その人達の体験談を載せているだろう。
しかし、その体験談の本当の苦しみは、貴様の文章からは読み取れない。まるで、体験談が全て消費され尽くされているような感じだ。


そう、貴様の結論がまずあって、それに都合の良いように患者の体験談が選ばれ、それを貴様の都合の良いようにブログ上や本のなかで表現し、貴様の結論にとって都合の良いように消費してしまっているということだ。
貴様にとって、ひとりひとりの当事者の人生のことなど、なんの重みも持っていないようだな。そのライターとしての姿勢は前著の「精神医療につながれる子どもたち」から一貫しているように感じる。一見良心的なライターのように見えて、実は貴様はとても冷血な人間だ。



同じライターでも、「ルポ・刑期なき収容」を書いた浅野詠子さんとは大違いだ。彼女は本物のライターで非常に骨太な社会的なルポを書き上げたが、取材は非常に丁寧で人間的で、かつ、取材対象者に対する責任を最後まで、いや今でも果たそうとしている。
嶋田和子よ、悪いことは言わない、今からでも同じライター稼業をしている浅野さんを見習って、しっかり更正した方が良い。
貴様のようなタチの悪いライターは、見るモノが見れば、すぐに正体はばれてしまうのだから。
読者大衆・患者大衆・病者大衆、下手すると家族大衆も、貴様が考えているより鋭い眼をしているぞ。自分のかけがえのない人生がかかっているのだから。


 嶋田和子ライターへ


  皿澤 剛





差別的精神医・笠陽一郎へ 病者の怨念からえばっち『自己批判』を転載します(三)

ただいま、私の「google+」にて、美しい写真の数々を絶賛アップしております。
どうぞ、ご覧くださいませ。
https://plus.google.com/u/0/109627596197940380227/posts

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なぜに、笠陽一郎はおかしくなったのか?

なぜに、笠陽一郎はハッタツ障害(特性)しか存在しないと断言し、精神病など存在しないと断言し、向精神薬は呑む必要などないから断薬しろと言い、断薬できた少数のニセ病者をこれほど持ち上げるのか??

なぜに、笠陽一郎は、患者会の病者よりも親・家族と連帯し、親・家族のエゴを満たそうとするのか?それを最も鋭く批判してきたのは笠陽一郎だったのではないのか??

なぜに、笠陽一郎は、古くから一緒にやってきた患者会の病者の言うことを無視するようになり、得体の知れない片岡聡嶋田和子と喜んで付き合うようになったのか???

なぜに、笠陽一郎は、あれほど臨床を大切にして、希有な有床診療所を一生懸命に守り、精神病院の現実を踏まえた、リクツではなく臨床の地に足のついた実践をやっていた希有な精神医だったはずなのに、また、だからこそ、本当の患者主体の患者会と一緒にやってきた、「精神医は患者会から学ばなければ腐敗していく」といつも言っていた希有な精神医だったはずなのに、それとは真逆の「フリー精神科医」を名乗るようになったのはなぜなのか???


笠さん、あなたは、そんな人間ではなかったはずだ。



差別的精神医・笠陽一郎氏が、突然、自らのホームページをなんの予告もなく閉鎖してしまいました。非常に無責任で、かつ、卑怯な行為だと想います。
しかし、笠陽一郎氏自身は非常に元気で、地下にもぐり、未だに無責任な『セカンド』を続けていることが分かっています。この無責任な『セカンド』を止めるまで、笠陽一郎氏への徹底的な批判は続けていく所存であります。

これ以上、(親・家族ではなく)当事者本人の被害者の方が生まれないように、笠陽一郎氏の『セカンド』をやめさせなければなりません。



ところで、漏れ伝えて聞こえてくるところによると、笠陽一郎氏は『フリー精神科医』などと名乗り、このような検証不可能な無責任な『セカンド』を、地下に潜りつつ、また大規模に行おうとしているようです。そのために、ITを駆使できる人間を使い、非常にクローズドの『セカンド』をネットを使ってやろうとしているようです。「くじら会」のママさん達も、笠陽一郎氏に刃向かうようになったママさんは切り捨て、笠陽一郎氏に都合の良いママさん連中を集めて「くじら会」も再編し、体制を立て直してから、このような『セカンド減薬ハッタツ断薬療法』をITを使って広めようとしているようです。
そして、そのとき、笠陽一郎氏が大きなタマとして使おうとしているのが、なんと、やはり、と言うべきか、
「差別的精神医療ライター」嶋田和子氏なのではないか、というハナシも聞こえています。そのハナシが本当なのか、それとも実は嘘なのか、これから、この二人の動きを徹底的に監視していこうと想っております。



最後に、笠陽一郎氏の最後の「独語徘徊(87)」は酷かった。あれほど、病者を、クスリを飲んでいる当事者をバカにした文章は初めて見ました。
《やくざいせいやくざは・・・鬱転してお陀仏・・・》
《お祭りマンボを、お薬ナンボ・・・》

そこまで、病者・当事者をバカにしてまで、自分の作った『セカンド減薬ハッタツ断薬療法』を守りたいのか。そのための検証である、えばっちとの対談・呼びかけ人会同からは逃げ回り、自分にとって都合の良いケースだけは宣伝し、
自分の『セカンド』で酷い目に遭っている当事者のケースは隠し、自分の
理論にとって都合の悪い病者・当事者は徹底的にバカにする・・・。

あろうことか、「早期介入を考える会」の最初の呼びかけ人だったはずなのに名前が消えている・・・。



笠陽一郎氏がそこまで酷い差別的精神医だったことが想定外だっただけに、自分の人を見る眼があまりにも欠けていたことに愕然としている。

   皿澤 剛
------------------------------------------------------
http://rintaroshobo.zouri.jp/sonogojikohihan.html

 (承前)

大晦日、元旦を、信州のトアル精神病院で、

過ごした、あの年の瀬は、忘れられません。

寒かった。とても、寒かった。

大晦日、おそばが出たのかどうかは、もう、忘れてしまった

ただ、元旦に、お餅が、お雑煮が出たのですが、

それが、

ナントも形容のしようのないモノで

形容のしようがない、スゴイものでした。

とてもじゃないが、食べられなかったのです。

でも、普通食のお雑煮を、お盆の上に、のっけている、

ぼくの方を

そうではない、おじいちゃんやおばあちゃん達が

じぃぃぃっと、見ているのです。本当にじぃぃぃぃぃぃーーっとね。

ぼくは、もちろん、食べたんデスヨ、もちろんね。





電気ショックもアッタんです。

飯は、ヒドかった。

弟を殺した人もいたんです。

保護室で、放火した人も、いた。

二人とも、死にました。

コロサレタにチカいかな・・・・

忘れられません。




弟を殺してしまったタさんが

あの時

こう耳元でささやいてくれた

医者にはさかろうたらあかん


ぜったい、入院中は、医者にはさかろうたらあかん

一度も退院することもなく

電気ショックをやられ続けたアタマを抱えて

死んでいった

後に残されたのは

膨大な量の岩波文庫の本だったハズだ

ハズというのは、その時、ボクは、退院できていたから

シャバにもどれていたのです

みんなを置いて、ボクは、シャバに、京都に戻って来れましたから・・

あの時

のハナシは、また後になる

あの時

タさんは、ぼくの耳元でささやいてくれた

医者にはさかろうたらあかん、と。





保護室に入るなかまを、保護室の前まで、見送っていった。

看護士に取り囲まれて

見送っていきました

看護の日勤帯が、終わる時間になると

いつもいつも、保護室に向かうなかまの

傍らを

二階のB2病棟まで、送っていった

日勤が終わるときの、恒例のパレードだった


ナンデ、あんなに、大勢の看護士が看護婦が、取り囲んでいたのか

二人で、脱走するとでも、想ったのか

そのたびごとに、こう言っていた

またあした、会いましょう、ってね

そうやね、おやすみ、ってね。

こう言って

保護室の前で

分かれたものだった

目の前で保護室の扉が閉められた

春には退院できて、うまくやっているものだとばかり

想っていたが、

秋になる頃には、もう、死んでいた





深夜に火災報知機のベルが鳴り響く

またか

やかましいな

またや

部屋からゾロゾロ出てきて

ふつう火災報知機が鳴ったら、

火事かもしれんと、逃げる準備のハズだが

ココでは、ソンナことはない


みんな、ゾロゾロ部屋から出てきて

デェイルームの、あの安っぽい食堂のテーブルとイスが

並んだところの定位置に、座りだすか

造り付けのグリーンの擦り切れた長椅子のある

あのコーナーに、座って、鳴りやむのを待っていた

やかましいな

寒いねーーー

今度は、誰が、やったのかな

今日も送っていった彼じゃないか

とおれに問いかける


そうしてやっとこさ鳴りやむころに

何処からともなく

あの彼が保護室で火をつけて布団焼いたらしいで

と云うハナシが、伝わってくる

みんなおれのほうをみている

アンタがライターわたしたんだら

ぼくじゃないですよ


じゃあどうやって手に入れたんずら

なかなか、あの若いの、やるな

看護士からケッコウやられるぞ、こりゃあ

眠気さめた

追加眠剤貰いに行こうかな

そのうち、詰所から看護士が出てくる

みなさん、もうそろそろ部屋に戻って寝てください

火災報知機の説明は無い

看護士さん、追加の眠剤貰えますか

ああ、いいですよ、取りに来てください

ほかのヒトも、入りますか

おれもおれも、と、ゾロゾロ何人か

詰所に向かって行く


おれは部屋に帰ろうとするが

ナさんだけ、そこに残っている

ナさんは部屋帰らないんですか

と聞くと

おれは、ここで、いいんだ

と言って、その造りつけのソファーに横になった

おれは、ここで、寝るんだ、と言う

その人は、部屋のベットでは寝ないという

寝れないという


このソファーで寝るんだという

背広というかジャケットというか

上着をキチンと着たままで、いつも、そこで寝ていた

そういえば、部屋のベッドで、寝ていたこと、無かった

看護士も、それを許していた

特別なことだった

なぜなのかワカラナイママになったのだが

おそらくは部屋のベッドで寝ていてナニカあったのだろうと想う

看護士すら、ベットで寝なくても良い、という事になるほどの

ナニカが・・・





タさんが

あるとき、弟をコロシテシマツタんだ、と、言った

唐突に言った

あまりに唐突に、突然言った

おれは、どう答えていいのか

分からず、どう反応し様もなく、凍り付いて、ドキマギしていた

電気ショックをやられ過ぎで

アタマのカタチが、変わってしまったんだ、と、言った

いつもアタマを抱えて、岩波文庫を読んでいた

ぼくも妹を半殺しにしてしまってここに来たんですよ

と言おうかな、と、想ったが、結局ナニモ言わず、

電気ショックでアタマのカタチ変わったんだ、というハナシを

ずっと聞いていた

電気ショックを何回も何回も

アタマのカタチが変わるほど、やられたんだよ、そう言って

タさんは、アタマを抱えながら、本を読むのだった





トさんが、言った

あの日は天気はよかったんだが、波が高くて大変だったんや

天気は良かったんだよ、天気は良かったんだが、

でも、波が高くてね、波が高くて大変だった

と繰り返し繰り返し、言った

トさんは、それしか言わない

それで、ぼくは、もしかして東郷元帥ですか、と、尋ねたんだ

彼は、ぼくを見て、ニンマリ笑って

こう言った、いつもより、幾分はっきりと、大きな声で、こう言った

あの日は波が高くて大変だったんだ!!!!!!

彼が外出するのも、散歩に出るのも、

大体、病棟から出るところも

見たことがなかった

そもそも、部屋から、出ていないようだった

ぼくの退院が決まった日、挨拶に行くと

あの日は波が高くて大変だったのだ、と、いつもより、小さい声で

ヒッソリと言った

退院した後、面会に行くと

彼は、ぼくに、ナンニも、言ってくれなかった

まるで、ぼくが、ソコには、存在していないかのように

タイインシテシマッタぼくは、彼を、裏切ったのだと、想いしった

退院してしまって、裏切ったのだと。

その後、退院したぼくは、入院していた病棟に、面会に行った

お見舞いと云うよりは、面会に行った

考えてみれば、あの時以来、入院していた病院に、

なかまを訪ねて、面会し続ける、と云う、ことになったのかもしれない。

東郷元帥に感謝すべきなのか

恨むべきなのか

その時から、ぼくは、10年以上経って「バクチク本」を持って行った。

東郷元帥は、もういなかった。

それから、また、15年も経ってしまって、コレを書いている

東郷元帥は、今は、ドコにいるのだろう。




  (つづく)




差別的精神医・笠陽一郎へ 病者の怨念からえばっち『自己批判』を転載します(二)

ただいま、私の「google+」にて、美しい写真の数々を絶賛アップしております。
どうぞ、ご覧くださいませ。
https://plus.google.com/u/0/109627596197940380227/posts

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差別的精神医・笠陽一郎氏が、突然、自らのホームページをなんの予告もなく閉鎖してしまいました。非常に無責任で、かつ、卑怯な行為だと想います。
しかし、笠陽一郎氏自身は非常に元気で、地下にもぐり、未だに無責任な『セカンド』を続けていることが分かっています。この無責任な『セカンド』を止めるまで、笠陽一郎氏への徹底的な批判は続けていく所存であります。

これ以上、(親・家族ではなく)当事者本人の被害者の方が生まれないように、笠陽一郎氏の『セカンド』をやめさせなければなりません。


    皿澤 剛
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http://rintaroshobo.zouri.jp/sonogojikohihan.html

(承前)

ゲンヤク成功体験のママさん達がやるセカンドゲンヤクハッタツハウスは、

はっきりいって、精神科の新しい拷問を生み出すだろう。

強制減薬という拷問である。

「本人の頑張りに尽きる」と云うことであるならば、

これは、モハヤ拷問への第二歩である。

第一歩は、本人の意向よりも、母親の意向優先、と云う、ことである。





本人の了解を取れと、くどいほど、言ってきた

強制拷問に為ってしまうからだよ

我々は、

強制大量投薬で殺されてきた、

強制電パチで殺されてきた、

強制五点張りで殺されてきた、

強制入院で、強制退院で殺されてきたんだ

強制社会復帰、強制就労で、強制復学で殺されてきた、

今度は、

強制減薬でも殺されるのか。

強制断薬でも、殺されるのか。

三流のホラー映画のセカイだ。

アナタ、オソロシく無責任な

積極治療主義的な実に危険ですらアル新しい治療法を

積極的に拡めて、

良いことばかり宣伝してきたンダネ。


セカンドゲンヤクハツタツダンヤクと云う療法を

ある種新しいジッケン的治療法をウンドーとして宣伝してきたんだよ

セカンドゲンヤクハツタツダンヤク療法の先に、、、、、、

今更、地獄のような減薬の先に退行が、、、、、、戻らないダノ、

ダメージが数年では戻らないダノ、、、、、、、

いったい、ナニを、この期に及んで、

ヤットヤット、ソンなソンナ大事なことを、

替え歌の鼻歌交じりに、

アナタのコラムのタイトルが変わります、笑ってくれ、


ナンゾと、一緒に並べて、言うことか、これが・・・・・

ダメだこれでは

コンナ書き方もダメだ





だから、おれとの対談をシテオクベキダッタんだよ

対談したら、おれ聞いただろうから、、

アナタそれに、誠心誠意、答えて、、、一見不利と見えることも

少数例ダロウが何だろうが、ソレら、みんな出して

文章にして、出して

ソレを、いろんなところに、大量にばら撒かなきゃ、イケナカッタんだよ

今からでも、遅くない、それをやらないと、ダメだ。


やらなきゃ、ダメだ

今さら、こんなことを、コンなノリで書いていたら

もう、ダメだ、ナントいう事なんだ、、、

おれは、悪夢を見ているのか、、、夢なら覚めてほしい、、、

対談、やらなきゃダメダ、

今さら、コンナことを

こんなノリで、コンナふうに書くナンテ・・・・・ドウカシテイル

ドウカシテイルぞ


ゲンヤク地獄の果てに親子心中って、、、、アナタナニを言っているんだ

最後の毒語臥床、アレは、ひどすぎる。

本当にヒドイい。

アンな書き方は、ひどすぎる





クスリの入れ方で

クスリの減し方で、

患者の性格なんか、ドウとでも、変えられるんだ、ナンて事

よく言うよ

ワシらキチガイは、精神医のやり方で、性格や人格までも

自由に、サセラレルンかいな、


アナタ、本当に

精神病患者に、酷い事を言っているのが、分からないのカネ




若い方が、うまくいくようだ、などと、今頃いうことなのか。

ドウイウことなんダ

若くて、数年しか飲んでないので、わりとスンナリ、解放されている、とは。

だったら、二十年、三十年以上、と、飲まされて、

中年高年のななかまたちは、

ドウしたらいいのか。


早く死んでクレってか。

とにかく、黙っていてくれってか、、、、、





ナンカの抗体の血液検査で、サモ、ハッタツ障害が、分かるなんて、

一体、何を

カンガエテイルンダ

それ、どう、利用されるか、、、知れたもんじゃナイゾ

片岡のアンポンタンバカ坊、法務省の矯正局に呼ばれて口演ダゾ

そんな状況なのに

アナタいつから、生物学的精神医療推進派になったんだ。

脳に傷がアルたら、遺伝子見つけた、タラ、と本質的には

一緒や。

アレルギー検査でハッタツかとうか、分かる、って、言うんダカラ

本当に、こんな血液検査、拡まっていったら、、ドウナルコトカ、、、

しかも、キーヤンとは、、、、、

キーヤンと、揶揄するとは、、、、信じラレン、、、


アナタ、キチガイを舐めているのか

キーサンという「生命の底で居直る」コトバ

生み出したのは、ごかい、ではないのか。


キーヤン、って、どういう意味だ、答えてみろ、笠陽一郎医師。

答えてくれよ、笠陽一郎大先生。





想像を絶する無責任新治療法ジッケン精神医だよ、アナタは

そのアナタに、二十年も鉄砲玉当事者として使われてきたのか、

このおれは、、、、、ナサケナい、ナサケなさ過ぎて、涙が、出る、

やりきれない。

本当にやりきれない。

ナサケナイ、本当に。

自己批判なんてもんじゃないよ

自己批判なんて、生やさしいモノではない

少なくとも九十四年から二〇十三年までは、おれは、

アナタという、トンデモ精神医にリヨウされてきたのではないか、

しかも、鉄砲玉としてね、ナントいうことだ、

そういう、ナサケナい悔恨だよ。本当に。

あぁぁぁーーなんということだ


間違ってシマッタ

本当にそう想う

希望をみようとしたのが、マチガイだったのだ

希望ナンゾなかったのに、希望をみようとしたのが

マチガイだったのだ

積極治療主義的な事も

社会復帰的な事も

家族会的な事も

健病者的な事も


就中、差別的な事も

ワカッテはいたのだ

それら、すべて、譲ってでも、希望をみようとした、

えばっちが、マチガッテいたのだ







えばっちの自己批判の五点目は、

笠陽一郎という医者に、

えばっちというモノを言う、そして過激な行動を取る精神病当事者が、

20年間に渡って、利用されてきたと云うことです。

そのことを、20年間、えばっち自身が気がつかなかったということです。

モノを言う当事者は医療従事者や専門職に利用されるぞと

警告を発しながら、

オノレ自身がマンマと利用され続けてきたことに、

気がつかなかったということです。

付け加えれば、今気がついたといっても、

自分自身で気がついたわけではないということです。


四方ちゃんという編集者と、

それなりに外から見ていた、良心的で、一切ドンなウンドーにも拘わらないぞ、自分自身の診察室ノミ穴掘りダケをしていくんやというような、

それはそれで、「見識」としては、立派な、

だけども、やっぱり、

カマトトしてきたような、批判もしたいような、

ソンナトコロからの

良心的、医療福祉従業者からの指摘を受けなければ、

恐らくは、自分では気がつかなかったということなのです。

そう、自分では、気づケナカッタと云うことなんですよ。


ナサケナイハナシなんです。えばっちの、悔やみ節なわけです。

笠陽一郎という医者と、おそらくは広瀬というワーカーは、

とても専門職として『ラク』だったはずです。


えばっちというモノを言う、

そして、過激な行動を取る精神病当事者を、

プシ共闘が全国精神病者集団を利用してきたよりも、

もっと根底的に、

もっとベンリに利用してきたというわけなのです。





そしてまた、自己批判の六点目は、

前進友の会、

なかんずく、えばっちを軸にやってきた、病者集団や全精連という、

いかばかりか当事者性を持つところを批判するときに、

笠陽一郎という、『精神医の権威』を利用したところは、

なかったのかという、

実に苦しい自己批判と自己反省なのです。

つまるところ、

えばっちの自己批判の五点目と六点目は

笠陽一郎と云う精神医に、もの言う過激な行動を取る、

えばっちが、利用されし尽くされてきたというところと、

えばっちが、

当事者性看板型制度政策提言型翼賛運動ボスを批判するときに、

笠陽一郎と云う精神医の権威を利用したか否かという

実に苦しい、

ここ二〇年間の振り返りなのです。


そしてそれは、

えばっちと、笠医師の、この二〇年間が、

イツタイナンダッタノカ、と云う、繰り言、ともいえる、

歴史と向き合うことになるかもしれないのです。






えばっちは、

笠という医者に

消費されつくされた

のかもしれない

ナサケナいハナシである

今後精神病患者会をやる

みなさんに言いたい

一緒に闘いたいナンテ言っている精神医には、気を付けろ、と。







「正しいコト」と「本当のトコ」が、

一致していたら、

どんなに、ヨカッタでしょう。

「正しいコト」と「本当のトコ」という、

両面がアルのです。

そして、

「正しいコト」と「本当のトコ」が、これだけ、

遊離していると、

というか、対立し始めると・・・・・

「本当のトコ」もアルのでは・・・・

「本当のコト」も言わなければならないのでは・・・

「本当のトコ」を無視して「正しいコト」だけを、

正しいからということで、主張していると、

それは、

ウンドーになり、

嘘に、なっ ちゃうんですよ。


そして、今や、本当のトコロを言い始めても、

それは、モハヤ遅すぎた、と云うことになるのです






依存ですよ

キーワードは依存と自立だったんですよ

生命の底で居直る、と云う、コトダツタノデス

申請神聖新制ハツタツ臨床薬学博士無責任人形抱っこ専門職

法務省矯正局運動ボス片岡聡博士の、

あの、ヒトを馬鹿にシクサッタ

依存したいしたいしたい

という

依存してエラクなりたいのだ、と、

そのためのサポートチームが欲しい、という、

生きるための依存ではない





精神ビヨウインから出たカッタ、町で暮らしてミタカツタ


と云う、そういうことではなく、

それどころか、生きるためのサポートを削ってでも、

エラクなるためのサポートチームに依存とは・・・・

あのあのあの・・・・・

フザケルンじやない、このクソバカタレが

自分の言って回っていることにセキニンを持て









友の会の大晦日、年越しかき揚げうどん大会の、

うどんの量が、ハンパではなく

そのうえ、巨大かき揚げを三つも、のっけて、食べたのでした。

みんなは、二つ。

えばっちは、三つも、載せたのでした。

あーー欲張りだなぁぁぁーー

大晦日、食い物が大量にある幸せを、

感じたのです。

なかまが、いることにもね。


三度のごはんは三度ともいるのです、絶対にね。

なかまとともに、三度のごはんがたべられたら、

それで、いいのですよ、ほんと。



(つづく)